ことことちくちく

アクセスカウンタ

zoom RSS 「Heal The World」の箱の中

<<   作成日時 : 2011/03/13 06:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

私の大好きなマイケルのブログから許可を頂き、コピペします。
http://blogs.yahoo.co.jp/shunshouataisenkin/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%A5%B5%A5%E9%A5%A8%A5%DC



サラエボ。ある難民の手記
(『Michael Jackson Opus』より、Annie Salijevicによる2009年(22歳時)の手記)

1992年5月、私は母に連れられてボスニアのTuzlaという町に住む祖母のもとを訪れました。私はクロアチア人で、普段はKorculaという島に住んでいたのです。ところが、そこにいる間に、内戦が始まってしまいました。私達は逃げ出そうとして、どうにかサラエボまではたどりついたのですが、そこで3年間身動きがとれなくなってしまったのです。

 当時7歳だった私の子供時代は、めちゃめちゃになりました。まわりには私と同じ年頃の子供などいず、手榴弾やサイレンの音が日課。他の現実はすっかり遠くのものになってしまいました。昔の記憶も、ごくおぼろげな夢のようにぼやけてしまいました。

戦争が始まってから6カ月ほど経った頃、私達の住んでいた建物の近くに駐留していた国連軍の士官が何人か、私と話すようになりました。4歳の頃から母に教わっていたので、英語はそこそこ分かりました。私は母にもらった英語の児童書をすっかり覚えてしまうほどだったのです。

子供時代の友達といえば、この期間は、その優しい国連軍の士官達だけでした。彼らは、ニューヨークのブロンクスやクイーンズから来ていました。私が彼らにボスニア語を教えるかわりに、彼らは私の発音を直してくれたり、難しい単語の意味を教えてくれたりしたものです。そんなある日、士官の一人が、ヘッドフォンで聴いていた音楽を、私にも聞かせてくれました。

とても素敵な音楽だったので、私は彼に、それを聴きながら眠りにつきたいのだけれど、と頼みました。そしてその夜は、その数カ月で初めて、夜じゅうぐっすり眠れたのです。朝起きてみると、枕元にメモが置いてありました。それには、「きみにあげるよ」と書いてありました(このメモはまだとってあります!)。ヘッドフォンは前夜したままになっていて、MJのBadとThrillerのカセットも置いてありました。それから2年間と言うもの、彼の音楽が私の楽しみでした。

当時は、マイケル・ジャクソンというのが誰なのか、全く知りもしませんでした。でもとにかく、彼の音楽が私に勇気をくれ、外界の雑音を静めてくれたのは確かです。今でも何か心配事があるとき、彼の音楽を聴くと、まるでお気に入りのタオルケットか何か持っているみたいに、心が落ち着いてくるのです。

私達のもとに届く救援物資は、たいていは国連からのものでしたが、時折、「Heal The World」というラベルのついた箱もやってきました。そしてこの「Heal The World」の箱の中身は、いたんだ小麦やお米だけ、などということは決してなかったのです。食べ物や医薬品と一緒に、いつも必ず、毛布やおもちゃも添えられていました。今でも、そうした救援物資の箱でもらった毛布を大切にとってあります。

1995年、私達はドイツに逃げ延びました。難民として、母と私の二人きりで。私はすぐに現地の言葉を吸収しましたが、母は1年は言葉で苦労していました。母は私がきちんと心地よく暮らせるようにと、懸命に働いてくれました。何カ月かごとには、私にMJ関連のもの(や、やはりその頃私が夢中だったパワーレンジャー関連のもの)まで買ってくれたものです。

1997年の誕生日に、母は、6月にあるMJのコンサートチケット(Gelsenkirchenにて、3列目ペア)をプレゼントしてくれました。誕生日は1月でしたから、そんなに長い間待ち続けるのは拷問のようでした。でも、それだけの値打ちはありました。彼を目にしたその日のことは、ただ圧倒的で、現実とは思えない気がするほどです。自分は、彼が勇気付け、影響を与えた無数の人のうちの一人に過ぎない、ということはよくわかっています。でも、私にはまるで、そこに自分だけしかいないように感じられたのです。今でも、あの時のことは、ただ奇妙で、ありえない、現実離れした出来事のように思えて仕方がないのです。

コンサートが終わると、強引な母は私をステージ裏口へ引っ張っていきました。そこには、MJを一目見たいという人たちが集まっていました。彼が出てくると皆、狂ったようになりました。彼は母が持っていたCDにサインしてくれました。私は恥ずかしくてたまらず、母の後ろに隠れていたのですが、そんな私にも彼はニッコリ微笑み、ウインクをすると、髪をなでました。母はMJが「ヘイ、キューティ(かわいこちゃん)」と言ったんだと言い張るのですが、私はその言葉を聞いた覚えはありません。

やがて2000年の初めに、私達一家はカナダのバンクーバーに移り住むことになりました。MJのライブをもう一度見ることができる可能性は薄くなってしまいました。たとえ彼がまたワールド・ツアーをやっていたとしても、北米でやるつもりはなかったでしょうから。ですが、MJの思い出は、その一つ一つが、私の宝物。今では彼に会う機会に恵まれたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。

こんなに早く彼が逝ってしまうことにならなかったら、どんなにいいかと思います。ですが、私には、一番素晴らしい人は、真っ先に逝ってしまう、というのが自然に思えるのです。小さい頃の経験から、そう分かっているのです。まだ、彼の死のことを考えるだけでも、苦しくて、「乗り越えた」などとは全く言えないような気持ちでいます。でも、彼は逝ってしまわなくてはならなかったんだ、というふうに感じるのです。彼は私達みんなのピーター・パンでした。本当に寂しくなります。いまだに、マイケル・ジャクソンのいない世界とはどんなものなのか、理解もできない、判らない。そんな思いです。

こういう経験をしたのは、私だけではありません。私は、「MJのHeal The World財団が救援物資をサラエボに送った」というニュースをのせたYouTubeビデオにコメントしていた人達数人と、連絡をとってみました。すると、私同様、難民生活を経験(する中でMJに助けられ)した人が沢山いたということです。そして、脱出先でMJのパフォーマンスを見た人も大勢いたのです。私も含め、そういう経験をした人達は、子供の頃、MJがしてくれたことを、決して、決して、忘れることはないでしょう。「子供時代」を持つ望みなどほとんどありえなかった時代に、私達に「子供時代」をくれたのがMJだったのです。かけがえのない贈り物でした。 どうか安らかに、お眠りください。


*******
画像


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「Heal The World」の箱の中 ことことちくちく/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる